ELEGANCE

自分の在り方まで問う食事。7月の茶懐石お勉強会

7月から月に一度 茶懐石のお勉強会に参加するように。

今月はとくに「食事をいただく」姿勢を見直すような、感動をおぼえる回となりました。


すばらしく深いお話をうかがいまして、上手にまとめることはとてもできないのですが忘備録的にちょこっと…




自分だったら「どう食べられたいか」

茶懐石はお米とお野菜が中心ですが、お肉とお魚も少しいただきます。


よく考えてみれば、自然界の食物連鎖のなかで人間は他の命をいただく一方であり、自分たちが「食べられる」ことはありません。


だからこそ、
「もしも自分がこの命を別の命に差し出すとしたら、『どんなふうに食べてほしいか』を考えてください」
と先生はおっしゃいます。


「打ち合わせをしながら、TVやスマホを見ながら食べられたいですか?」と。


…衝撃でした。
そんなこと、生まれてから何万回も食事をしてきて、一回も考えたこともなかったです。


もし自分が食べられるとしたら?
この命を捧げるとしたら??


でもすべての食べものは、私たちに命を捧げてくれているんですよね。


世界と自分を分けない

茶懐石では一番最初にお茶碗にご飯が少し出てきますが、食べる前にまずそのお米をほんのちょこっと(正確には7粒)お膳の右上に置きます。


これは、

「この食事で自分だけ空腹が満たされればいいというわけではない、世界みな等しく平和で円満な恵みで充たされますよう」

という思いを表すお作法なのだそう。


自他の対立を離れ、自分と世界を分けることなく渾然一体となる…

そのことを毎回の食事で思い出せたらどんなにいいでしょう。


どうしても「自分は自分。他人は他人。外の世界は外の世界。」とわけて考えてしまいますが、本当はすべて繋がっていることを。


よく「外側の世界は自分の内側の反映」とも言うけれど、そのことを毎回自分に思い出させてくれるお作法だと感じます。


相手は自分の鏡

茶事や茶懐石においては「相手は自分の鏡」です。
(というか、日常生活全般においてそうですよね)


相手が自分の方に歩み寄ってくれたら自分も相手の方に膝を進める。

お膳を受け取るとき、自然と自分の頭も下がる。

それがごく自然な呼吸で行われる。

たとえ主人と客人であってもどちらかが一方的にもてなす・サービスする、ということではないのです。




先生のお話は5次元以降の概念だったり宇宙や神にまで広範囲に及び、私の頭には何分の一かしか残っていないのですが…



「食べるって本当は一回一回が奇跡のようなことだったんだよなあ、

こんなカンタンにどこでも食べ物が手に入るようになったのなんて、人類史の中でもここ数十年のことだもんね、、」

と、あらためて思います。



毎度毎度の食事をこのような清らかな心持ちでいただけたら、
⁡一回一回の食事が単なる「空腹を満たす作業」とか「日々のルーティーン」から自分を心身ともに浄める機会に戻る、そう思いました。

 

食べ足りなくて、そのあとかき氷に舌鼓を打っている私↑